さこの日常日記

書くことは、……一見不可能なことをあえてするもので、その産物は、……書く人のめざし試みたものに即応することも、似ることもないのだが、その代わり、時として、あたためられた冬の窓に出来た氷花のように、きれいで、おもしろく、心を慰めることがある。

彼女たちはストリップで何を得るのか。

  芸術とは何だろうか。

 学術的な定義はあるのだろうが、多くの人は独自の、だけども他者と似通った定義をもって芸術と認識している作品を鑑賞しているはずだ。

 美術館にある作品を、なぜ芸術作品と疑わずに私たちは観れるのだろうか。それは各人独自の芸術の定義が共通する部分が多いからだろう。

 芸術は、美しさという概念を含む作品を対象する(芸術作品で美しくないものもある)。ただ、自然景観は美しいと感じるが芸術ではない。自然景観を描いた作品は芸術となるが、人間の手が加わったものでないと芸術と人間は認識しないようだ。

 

 芸術とは何か?という問いをなぜ出したのか。それは、ストリップというものがどういった作品として社会が捉えているか私自身が理解出来ていないからだ。私にとってストリップは、どのストリッパーの作品であっても芸術だ。しかし、少なくない人がストリップは性風俗産業であるという認識が強く、私ほどストリップにのめり込む人が殆どいない。そのような状況に対して不満を感じている訳ではない。しかし、どうしても気になるのだ。

 

 2017年11月24日、私はストリップ劇場「浅草ロック座」にストリップを観に行った。いつもの何となくストリップ観に行こうかなという気持ちではなく、今回は目的があった。それは、私は「ストリッパー図鑑」という同人作品を前日に販売したものの結果は燦燦たるもので、内容をもっと充実させたいという衝動、それと以前鑑賞して感動した作品を作っているストリッパーの方が多く出演しているためだ。そういった目的意識によって観賞中の集中力が高かったことが影響しているかもしれないが、この日の公演「Fantasia(藤月ちはる引退記念公演)」は誰もが芸術だと感じざるを得ないものであると私には思えたのだ。

 ストリップのレビューはtwitterに投稿することしかしてこなかったが、この貴重な経験をより正確な内容で共有したいため今回はブログでレビューをする。 

 

  最初に、公演の概要について説明する。

 

劇場:浅草ロック座

公演:Fantasia 1st season

出演者(出演順):清本玲奈、大見はるか、鈴香音色、藤月ちはる、沙羅、あすかみみ、伊沢千夏、女性バックダンサー4名

※公演の宣伝用ポスターを参照用に添付しておく

その他:平日の1回目だったため、混み合ってはいなかった。

 

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それでは、各ストリップ女優のレビューに入る。

 

➀清本玲奈

 公演名「Fantasia」はどういう意味なのだろうか。ディズニー映画のFantasiaをイメージしたものなんだろうか?公演名に加えて、公演用ポスターの赤いバレエシューズを履いた足元は何を意味するのだろうか。これらの疑問がこれから分かるというワクワク感で公演前から既に私は興奮していた(後でFatasiaの意味を調べた。幻想曲という意味である)。

 

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 劇場内が暗くなり興奮しつつも静まり返った瞬間、女性達の笑い声が聞こえてきた。その笑い声はとても楽しそうで、イメージとしては少女が無邪気に遊んでいるときの笑い声のようなものだった。何が幕の中では起こっているのだろう?そんな疑問が湧いたと同時に幕が開いた。

 一景(ロック座は一景、二景、三景・・・という出演順の数え方をする)は、デビューして1年くらいの若手である清本玲奈さんだ。笑顔を見るだけでも元気にさせてくれる溌剌とした女優さんだ。AVも性欲が高まるというより精神的に元気にしてくれるという感じで、生まれもってこういう人がいるのかと感心してしまう。

 本公演でも明るいイメージの内容だった。収穫祭を祝っているシーンで、喜び踊っている娘役だ。冒頭の笑い声は収穫祭の賑やかなものを表現するためのものだった訳だ。清本さんのショーに対して「あ~、アルプスの少女ハイジみたいや。」という感想が頭の中にこびりついてしまっているので、アルプスの少女ハイジを観てみれば分かるというのが本音のレビューだが、これでは不親切なので詳しく書いておこう。

 清本さんもハイジも、周りの皆が可愛がってあげたい存在という点で同じだと私は考える。両者とも人間らしい感情のどれもがとても可愛いらしいのだ。今回の娘役は喜び踊っているだけでなく、すねたり恋煩いのようなものをしているシーンがある。そして、ストリップなので性的刺激を与えるようなシーンも当然ある。喜び踊っているシーンくらいしか可愛らしいさは感じないのが大半だが、清本さんは性的刺激を与えるようなシーンも含めて全てが可愛いらしかった。

 可愛いらしいという感情を現実世界で与えることが出来る稀有な存在が本公演の清本玲奈さんだ。

 

 ②大見はるか

  明るい牧歌的なシーンから打って変わって、青いパジャマを着た少女だけが存在する夜のシーンへと切り替わった。青いパジャマを着た少女が大見はるかさんだ。

 少女は何かに思い悩んで寝れていないようだ。大見はるかさんはロリっぽくないので、少女といっても高校生くらいを想定してるんだろう。高校生くらいとなると恋煩いのようなものだろう。

 そのような思い悩んでいる状態から突然、ふっきれたように全裸になるのだ。これには非常に驚いた。ストリップは徐々に脱ぐ演出が基本で、全裸になるというのは少数だからだ。しかし、突然全裸になることで少女の世界が現実の世界から夢?意識?の世界へと切り替わる。

 全裸と着衣状態では、その人に対する印象が全くことなってくる。大見はるかさんの全裸への切り替えは、悩める少女から大見はるかさんその人へと印象が切り替わった。

全裸だろうが着衣している状態だろうが、大見はるかさんは大見はるかさんなんだが、全裸による他の何者でもない大見はるかさんが美しい演目だった。

 

 ③鈴香音色

  大見はるかさんで場内が静まり返った中で、鈴香音色さんの登場だ。初見の女優さんだったので、何をするのか全くイメージ出来ていなかった。結論から先に述べると、豊満な肉体とバーレスクをやっていることも影響してか、ディズニーのショーのような盛り上がる空間を創り出すことが得意な女優さんだ。

 シーンは2つあり、ハロウィーン的なお墓で大人数でワイワイするシーンとお転婆な感じな花嫁のシーンだ。

 前者はまさにディズニーのハロウィーンイベントでもありそうな演出だ。バーレスクを私は観たことがないが、踊りを主にした喜劇がバーレスクの定義のようなので、まさに喜劇だった。

 後者も基本的に喜劇的な雰囲気を漂わせるものだった。花嫁をテーマにすると祝福するようなメッセージを乗せることが容易なのかと思うが、鈴香さんの花嫁はエンターテインメント劇の出演者の1人としての花嫁だった。こういった花嫁が出る結婚式は絶対楽しいだろうなと感じざるを得ない花嫁で、観客をワクワクさせてくれる花嫁だった。

 

 ④藤月ちはる

  藤月ちはるさんは、ここ数か月気になっていた女優さんだった。なんで気になり始めたかは分からないが、容姿が好みなんだろう。今回の公演を観に来ているお客さんでこの藤月ちはるさんの引退公演を目的とした人がちらほらと見受けられた。とても愛されてきた女優さんなんだろう。

 さて演目についてだが、藤月ちはるさんは芸術であり、彼女しか生み出せない世界に居ることができ幸せだった、ということに尽きる。

 バレリーナとしての藤月ちはるさんが、舞台に置かれた鏡に向き合って登場する。赤いバレエシューズを履き、一般的な白いバレエ衣装を身にまとっている。鏡に向かって、どことなく自信なさげな姿の自分に対面するバレリーナ。自分がどう観えているかを過剰なほど気にしているのだ。

 ストリップに限らず舞台芸術では、観客に顔を見せる。ずっと背中ばかり見せられていても、観客は何を表現しているか理解できないからだろう。だが、藤月ちはるさんの演目はそれをぶち破る。演目の6割近くは観客に背を向け、鏡と向き合っているのだ。

 バレリーナはバレエ衣装を何度も着替える。その度に鏡と向き合う。時間や経験によって変化していく自分がどういう存在なのかを常に確認するかのように。

 最終的にバレリーナは鏡がない状態で観客と向き合って踊る。しかし、鏡がなくなるまでがとても長い。人は常に他者に見られているということはないが、自分という存在が常に自分を見ることは出来る。バレリーナは常に自分を見続けているのだ。これはとても苦しいことだろう。何度衣装を変えても、その自分に見られる苦しみがともなうのだ。この苦しさを、鏡がある時間で私も共有していた。

 鏡がなくなったのはなぜなのかは分からないが、鏡がなくなってからは見られているという意識が無くなったかのような踊りへと切り替わる。しかし、鏡がない時間はあっという間に終わってしまうのだ。そして、赤いバレエシューズを脱ぐことでバレリーナは幕から消えるのだ。

 この演目は私が観てきたストリップの演目で特殊なものだった。今後のストリップ通いで、このような演目を観れることは二度とないだろう。この演目は藤月ちはるというストリップ女優の全てであり、藤月ちはるさんにしか演じることが出来ないものだ。私は藤月ちはるさんと、この演目に出会えて、本当に嬉しい。

 

 ⑤沙羅

   10分程の休憩をはさんで、後半が始まった。藤月ちはるさんの演目で興奮したので疲れたのが影響したのか、沙羅さんの演目はあまり印象に残っていない。メモを見ても「白い」としか残っておらず、良いレビューが書けそうにない。沙羅さんに非常に申し訳ないので、次回お会いした時はしっかりしたレビューを書こう。

 

 ⑥あすかみみ

 さて、あすかみみさんだ。私はあすかみみさんのファンなので、一景で犬の着ぐるみを着ているのを瞬時に発見して、愛犬のふわと同じ格好が出来て、とても楽しいだろうなぁと妄想していた。 

 あすかみみさんは可愛らしい演目しか観たことがなく、あすかみみさんのtwitterの投稿も可愛らしい衣装に包まれていることが多いので、今回も可愛らしい演目が来るかと予想していた。

 しかし、ブラックスワンが出てきたのだ。衝撃過ぎて、あすかみみさんではないのでは?と演目が終わってからも疑っていたが、やはりあすかみみさんだった。ナタリーポートマンが出演していた「ブラックスワン」風の衣装をまとっていた。映画のブラックスワンは狂気の存在でホラー要素が全面に出ているが、あすかみみさんのブラックスワンは悪女というイメージだ。

 ブラックスワンにたぶらかされる男役として藤月ちはるさんが出てくる。宝塚の男役みたいなものなので、男の強引さを上手くかわすというよりは、女性が好みそうなたぶらかしをブラックスワンはする。ブラックスワンはバレエでは悪女の役なので、あすかみみさんのブラックスワンも悪女なわけだ。あすかみみさんはHIPHOPダンスが特技(AVのプロフィールによると)なため、HIPHOPの悪女!という感じの曲が使われており、ダンスもHIPHOPでも少し攻撃的な感じの振付にすることで、悪女を表現していた。

 先に述べたように可愛らしい演目のイメージしかなかったため、カルチャーショックに近いものを感じた。しかし、この演目は演目でとても良かったし今後も観たいと私は感じている。女優さん特有のキャラや雰囲気というものは勿論あって、あすかみみさんの場合は可愛らしいものが良く似合う。ただ、表現力が高ければどんなイメージでもこなせれるわけで、あすかみみさんは表現力が高いので悪女もとても良く似合うのだ。

 今後、どのようなあすかみみさんを見せてくれるのか。想像するだけでワクワクしてくる。

 

 ⑦伊沢千夏

 そして、いよいよラストである。伊沢千夏さんは大阪東洋ショーで初めて観た。その時もラストで、とにかくスゴイ人気だった。容姿や体型は人の好みが大きい要因なので私見は述べないが、好みな男性は多いようなタイプであろう。女優歴も長い方で、固定ファンも多い。どこの劇場に行っても、とにかくファンが多いのだ。

 六景がブラックスワンという流れで、七景は白鳥だった。現実の白鳥は体が大きく凶暴なところがあるが、バレエの白鳥は優雅なので、優雅な白鳥を伊沢千夏さんが演じていた。

 バレエの「白鳥の湖」はハッピーエンドとバッドエンドとがある。ハッピーエンドでは王子と魔法で白鳥に変身させられていた姫の魔法が解け、結ばれるという展開である。結婚を祝うときに使われる曲が使われていたので、本公演Fantasiaもハッピーエンドで終わる訳だ。

  では一体なにがハッピーエンドなのだろうか?これは藤月ちはるさんのストリップ女優としての人生がハッピーエンドということだろう。伊沢千夏さんの演目であったが、本公演は全て藤月ちはるさんに捧げられている。

 ロック座は一つのテーマを設定して、それを元に各女優の演目が決まっているショーである。各女優のオリジナル作品をしていく劇場が多い中で、ロック座のストリップショーはそこに強みがあるといえる。

 伊沢千夏さんが目的でロック座に観に来た人であっても、藤月ちはるさんのための舞台に感動できるように作ってあるのだ。もちろん伊沢千夏さんの美しさは充分に引き出された上での話ではある。

 

 

 ストリップは女性器や胸を見せるシーンがある以上、性風俗産業に属するというのは仕方がないことだ。女性器や胸を見せることを求めているお客さんがいるからビジネスが成り立っていることもあり、ストリップはグレーゾーンであり続けるだろう。

 そういったレッドゾーンにいつなるか分からない状況にあって、ストリップ女優はAV女優や演劇女優では出来ない、ストリップでしか表現し得ないものを模索していると私は思う。そういった目標がないと、お金のためだけでは長く続けるには過酷な仕事だ。

 私は安全地帯で生活に将来的に困らない収入を過酷ではない仕事で得ている状況であまり不満は無い生活を送っている。そこに私しかなしえない目標は存在していない。だからだろうか。自分しか生み出せないものを生み出している女優さんに、美しさや芸術性を感じてしまう。

 今回のFantasia公演は、藤月ちはるというストリップ女優の美しさと芸術的なストリップ女優としての人生を表現し得たものであると私は疑わない。

 

 

勉強会 C.シュミット「政治的なものの概念」 2017/09/03

タイトルにあるように C.シュミット「政治的なものの概念」の勉強会を実施しました。

 

政治的なものの概念

政治的なものの概念

 

 

参加者:3名

開催日時:2017/09/03

開催場所:東京

勉強会形式:参加者は事前に一読した状態で勉強会に参加。内容確認と意味が分からなかった場所や内容を踏まえての感想を都度発表してもらい議論する形式を採用。

※勉強会開催決定から日数がなかったため、全部読んだ状態で参加できたのは私のみ...

 

 

本書は8節からなっており(各節にタイトル無し)、節ごとに区切った形で勉強会を進行したため、節ごとの内容と議論について記録を残します。

 

【1】

(内容)

・国家=国民の特別な状態であり、決定的な場合に決定力を持つ状態

政治的なものという概念が前提の概念

⇒「政治的なものの」を理解しないと誤解して理解することになる。

国家と社会(宗教、文化、教養、経済等)が浸透すると、国家的=政治的という等値の正しさが失われる

⇒国家と社会が同一性である「全体国家」が登場する。

 

(参加者からの発言)

特別な状態であり、決定的な場合に決定力を持つ状態とはどういうことか?

⇒国家間の戦争?

国家と社会(宗教、文化、教養、経済等)が浸透することの具体例

ナチスドイツのような国家?

 

【2】

(内容)

・「政治的なものの」標識=友と敵

※この標識は道徳的、美的、経済的な標識とは独立(直交)したものである。したがって、政治上の敵が道徳的に悪であり、美的に醜悪であり、経済上の競争者である存在とは必ずしも限らない。

 

・敵=他者・異質者

 

(参加者からの発言)

 ・「敵」の定義は見当たるが、「友」とは?

・某SNS発言より引用

『会社に入ってビックリしたのは、競合他社と行う"戦略的パートナーシップ"はただの方便なのではなく、純粋に経済的な意味で「互いのビジネスのために手を組もう」であったことです。政治的な勝つか負けるか・敵と味方の区別なんて、利益追求を旨とする企業体の前ではほとんど無効だったんです。』

 【3】

(内容)

・諸国民は友・敵の対立にしたがって結束し、この対立が現実に存在し、また政治的に存在するすべての国民にとって現実的可能性として与えられている。このことは、2節で述べた「政治的なものの」標識が他の標識と独立したものであることから道理上否定できない。

⇒敵には公的なしか存在しない。(マタイ伝にある「なんじらの敵を愛せ」の語源は私仇であり、政治的な敵を言及していない)

 

・すべての政治的な概念、表象、用語はすべて友・敵結束であるような具体的な状況と結びついている。したがって、国家・共和制・社会 etc.はそれらが具体的に、なにをさし、なにと戦い、何を反発しようとするのか、を知らなくては、理解し難い。

 

・戦争=組織された政治単位の武装闘争であり、敵対のもっとも極端な実現

 

・闘争の可能性が消滅した世界(平和な地球)=友・敵区別の存在しない世界=政治のない世界

 

(参加者からの発言)

 宗教において、公敵と私敵が区別されているのは驚きである。もう少し詳しく知りたい。

 

【4】

(内容)

・宗教、道徳、経済、人種の対立が、実際上、人間を友・敵の両グループに分けるほど強力であると、それらの対立が政治的対立に転化する。

 

・政治的な結束=重大事態を踏まえた、決定的な人間の結束であり、決定的単位

 

・多元的国家理論:思考上の契機を様々な領域から得ているため、自由主義個人主義の枠を脱していない。

 

(参加者からの発言)

 多元的国家理論の部分が非常に分かりにくい。

 

【5】

(内容)

・政治的単位としての国家は、途方もない権限(=交戦権)を一手に集中している。

・戦争は政治的にのみ意義があるものである。(正義の概念と相いれない)

・経済的に機能する利益社会は邪魔者を排除するようなことはしない。邪魔者を抹消しようと本気で要求するのは狂気のさたである。

・一国民が政治的決定を放棄することで、人類の理想とする状態を招来することはありえない。ただ、いくじのない一国民が消えうせるのみに過ぎない。

 

(参加者からの発言)

 

【6】

(内容)

・政治的単位は、敵の現実的可能性を前提とし、同時に共存する他の政治的単位を前提とする(=多元論)

「人類」は戦争をなしえない。「人類」は地球という惑星上に、敵をもたないからである。

・「人類」という名のもとの戦争など政治的利用法をされる場合が、上記より、これは欺こうとする行為である。

・「国際連盟」は諸国間の組織であり、国家の存在を前提とすることから、普遍的組織でもないし、国際的組織でもない。

国際連盟は、戦争の可能性を解消することはできない。

 

(参加者からの発言)

 ・「人類」が戦争するのは地球外生命体との時のみと考えられる?

 

【7】

(内容)

・真の政治理論=人間を善悪でみるのではなく、危険なかつ動的な存在として考える。

※極めて現実主義であるため、人々は不安や驚愕を覚える。

 

・政治的終末の特徴=友・敵の区別をなしえず、ないしはしたがらない。

 

(参加者からの発言)

 本節前半部~中盤部は政治学の知識がないためか、理解し難い。

 

【8】

(内容)

 ・個人主義自由主義は、政治的なものへの否定が含まれているため、国家理論や政治理論にはいきつかない。

 

自由主義的思考は、国家および政治に対して、「暴力」であるという非難を突きつける。

 

・戦争と暴力=野蛮な衝動

・生活の資料の平和的な話し合いによる獲得=文明的な打算

⇒戦争は、こんにちにおいては利点も魅力も失われており、文明的な打算が主となっている。

 

(参加者からの発言)

今日行われている経済制裁などは敵を前提としている以上、戦争と本質は変わりえない。

 

【所感】

 大学院以来であろう頭をしばく本に取り組んだことで、予想以上に参加者は疲労困憊でした。本ブログに詳細は記載していませんが、私が想像もしていない視点からの理解を得れたので勉強会は継続していきたいです。

 気になる点としては、社会人になったためにビジネス的な観点で理解する傾向があるように感じています。勉強会をする以上は現実に活かしていくことが肝要ですが、ビジネス的な側面が強すぎるの違和感を個人的には感じています。他の参加者はどうだったんでしょうか?

9/19 (書評) フランツ・カフカ(前田敬作 訳)「城」

フランツ・カフカの代表作品といえば「変身」であり、本屋でしばしば売っているのを見かけるので多くの人がカフカの名前は見聞きしたことがあろう。

 

「変身」は善良な市民であり実直な労働者であるグレゴリー・ザムザが、ある朝見るも恐ろしい虫になってしまい、最終的にザムザが支えてきた家族に見殺しにされるという小説だ。

 

「変身」はホラー要素が強い幻想小説のように一見して思える。ストーリーはテレビ番組「世にも奇妙な物語」にでも出てきそうな話だからだ。

 

だがカフカは「変身」で不気味な幻想小説を書きたかっただけではないと私は思う。

 

カフカ作品の最大の特徴は、主人公が理由も何も知らされないまま周囲の人達に除者として排除される点(処刑されたり変身のように見殺しにされたり etc.)にある。

 

何の理由か分からずに恐ろしい虫になってしまい、人間に戻る方法も分からず、何も抵抗することが出来ず家族に見殺しにされてしまう「変身」もその特徴を有している。

 

 

今回書評として取り上げる「城」も正にその特徴を有している。

 

先ずは「城」のストーリを確認しよう。

 

主人公Kは測量師として、或る村に仕事を依頼されて村にやってくる。

 

Kは或る村に腰を据えて生活をするつもりでやってきていたが、村に到着するや否や測量師など依頼した事実はないと城の役人に告げられる。

 

その場で役人を通して仕事を依頼した城に事実確認した結果、Kは測量師として正式に依頼されており村に滞在することを許される。

 

これで測量師として村で生活できる…はずであったが城から仕事依頼は来ない。

 

Kは依頼主の城から仕事をもらうために、城に行こうとするが城に辿りつくことすら出来ない。

 

城の役人と交渉や話をするためには膨大な時間と手続きが必要だが、Kは住む場所も金も持たないため、そんな手間をかけていられない。

 

速く仕事にありつきたいKは、城に勤務している役人と仕事上の付き合いがある人達に近づくことで城との接点を持とうとする。

 

だが、Kの目論見はことごとく失敗する。

 

失敗するだけならまだしも、正体不明の助手をつけられたり、宿屋の居酒屋で働く女性と同棲する羽目になったり、村長に翻弄されて学校の小間使いにされたりする。

 

Kは何度か役人と直接交渉する機会を強引に作り出そうとするが、その行為も状況を悪くする一方である。

 

どんなKが悲惨な状況にあっても、城は永遠に職についていない異邦人であるKに永遠に門を開こうとしないのだ。

 

 

小説「城」は城がKに対して永遠に門を開くことはないという事実を突きつけた状態で終わる。

 

つまり、カフカ作品の特徴である主人公が理由も何も知らされないまま周囲の人達に除者として排除されたまま(この場合は職にありつけない)で終わるのだ。

 

 

「城」は起承転結があるストーリー展開をしていない。その上、 この小説は未完の作品である。

 

予想される結末は

 

➀「変身」や「審判」のように主人公がなぜ殺される羽目になったのか分からないまま殺されるように、Kは村から出て行くことになる。

 

②Kは村のルールに従い何とか測量師としての職業にありつく。

 

 ではないかと私は思うが、結末がなくとも「城」は次のような現代人の姿を描き出している。

 

 

現代人が世界に存在するためには、

 

(1)物質的な存在である自己の肉体に対する実感。

 

(2)ある社会に所属しているという実感。

 

 この2点が必要である。

 

(1)を感じていないということは、つまり死んでいることなので説明は不要だろう。

 

問題となるのは(2)である。

 

 ある社会に所属しているという実感を得るためには、所属していることを数値化するという意味で或る集団に所属していることが重要となる。 例えば社会人であれば会社、学生であれば学校等である。

 

 現代人は所属先がなくなることに物凄い恐怖感を抱く。それはなぜか?

 

無所属というのは非存在であるからだ。

 

非存在になることを避けるために、どんな嫌なことがあろうと現代人は或る集団に所属し続けようとする(所属する集団は変わるかもしれないが...)。

 

非存在に在る人間は、集団からの保護(労働の対価として給与を受け取る etc.)を受けれないことに加え、社会的な繋がりがかなり切られてしまうため少数派としての苦しみが待っている。

 

 

では、或る集団に所属するためには何が必要なのだろうか?

 

それは或る集団のルールや価値観に従うことである。

 

或る集団のルールや価値観は無駄に思えるものもあれば、差別的なものもあったりするが、或る集団に所属するためには掟や価値観に従わなければならない。

 

企業や役所で働いている人の多くは、納得が行かなくても集団が求める掟や価値観に従って仕事をしたことがある経験をお持ちだと思う。

 

ここで話のスケールが大きくなるが、現代人が生きる世界は労働者として世界を回す歯車として働く価値観を我々に強いる。

 

したがって、好むと好まざると、このような世界に生まれてしまった以上は働かないと非存在になってしまう。

 

「城」のKは世界にとって非存在にならないために測量師の仕事を求めている訳だが、或る集団(子の場合は村)の価値観や掟を知らないがために仕事の求め方で多くの過ちを犯して自分の状況を悪くしてしまっている。

 

Kは合理的に考えて価値観や掟が無駄なものと判断しているため、そのような掟破りの行動を犯し続けているが、このことが或る集団に所属しようとする場合にはかなり不味い結果を生み出しているのだ。

 

 

この「城」のKの行動の結果から我々は何を学べるのだろうか?

 

1つは世界にとって非存在にならないために我々は働かざるを得ないという価値観を消せないということ。

 

2つは働くために所属しなければならない集団にも掟や価値観があり、それらに従わないと働けないということ。

 

この2点であろう。

 

1つめに関して、私が考えた分かり易い例が次のようなものだ。

 

・一生働かずとも余裕で食べていけるほどのお金を持っているのであれば、生きる上で働く必要は全くない。しかし、金持ちの多くは働いている。ただし、金持ちで働かずに遊んで過ごしている人もいる。金持ちで働かずに遊んでいる人は悪いことをしている訳ではないのに、彼・彼女らは世間的にあまり良い印象を抱かれてはいない。

 

2つめに関しては、集団に所属して働かせてもらっている以上は、個性を殺して集団のために働かざるを得ない場合があるということである。

 

 

現代に生きる我々は個性を大切にという価値観を持ちつつも、働かざるを得ないという価値観も同時に持ち合わせているため、個性を大切にしたい欲求と個性を消す行為でもある労働との衝突で苦しまざるを得ない。

 

この苦しみに対して、一旦社会から離れるという行為(ヒッピーは間違いないが、今はバックパッカーとかワーホリとかもこの種の行為なんだろうか?)をする人もいれば、労働者として欠かせない人物になることで個性を出そうという人もいる。

 

私自身は働き始めたばかりで正直どのような形でこの苦しみに対処したら良いか分からないでいるが、働くことに喜びがほぼ見出せていないので定時に帰るのが当たり前の国に転職できるように仕事のスキルと英語だけは毎日勉強している状況である。

 

 

何が正解ということはカフカはどの作品でも示していないが、現代を認識する上でカフカの作品は有用であるのは間違いないだろう。

 

 

城 (新潮文庫)

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熊本地震ボランティア活動参加(2016/05/08)

 5/8(日)に熊本地震の復興活動にともなうボランティア活動に参加してきた。

 ボランティア活動は初めての経験ではなかったものの、今後私自身がボランティアに参加するにあたって、記録を残しておくことで参考になるものがあると考え、ブログをしたためることにした。

 まず、ボランティア活動日の概略を以下に記す。

 

   AM 10:00 熊本駅で一緒にボランティアに参加する友人と合流

   AM 10:30 熊本市災害ボランティアセンターがある花畑広場着

   AM 11:00 登録及びにボランティア保険加入後、ボランティア活動を行う地区の公民館に移動

   PM 12:00 渋滞に引っかかり公民館の移動が遅くなり、昼食を取った後に実際にボランティアを行う被災者宅に移動。

   PM 12:30~14:30 被災者宅の瓦礫撤去、家具の移動等を行う。

   PM 16:00 熊本市災害ボランティアセンターに戻り、活動報告を行う。

   PM 17:00~18:00 ボランティア参加者は無料で入れる浴場で汗を流す

   PM 18:30 熊本駅から帰宅

 

 以上に示したように、一日のうちでボランティア活動を行っていたのは2時間あるかないかくらいである。ボランティア活動は16:00迄に終了するというルールがあったため、朝遅くにボランティアセンターについた私は殆どボランティアをする時間が確保出来なかったという訳である。

 さて、ボランティア活動を通して私が感じたこと、知っておくべきと考えたものをあげていこう。

 一点目は、ボランティアの参加方法に関してである。

 災害ボランティアに参加する場合は当然のことだが、個人で勝手にボランティアをすることは被災地での様々な活動を阻害することになるので、ボランティアセンター等を利用するべきである。ボランティアセンターは被災者の支援をすることが第一義にあるが、ボランティアに参加する人達の安全や体調も考慮するため、保険の加入やボランティア活動現場までの送迎、ボランティア活動の制限をしている。ボランティアに参加する人達を考慮すると手続きで時間を取られたり活動内容が制限されるため、不満が残る参加者も出てくるであろうが、支援活動に関して大半が素人であるボランティア参加者にとってはボランティアセンターを通した活動の方が参加者にとっても支援を受ける側としても適当であろう。

 二点目は、ボランティア参加者に関してである。

 災害ボランティアの多くの活動は集団でするため、集団として統一感を持って作業をするのが重要となってくる。しかし、ボランティア活動は注意事項は説明されるものの、ぶっつけ本番で集団でボランティア活動することになる。それに加え、来るものは拒まずにボランティア参加者を募集しているため、明らかに統一感を持てないようなメンバーで活動する可能性が出てくる。

 思い入れをもって災害ボランティアに参加することは尊重されるべきものであるが、同じ参加者といえどもボランティア活動に対するモチベーションや被災地への思い入れに大きな差があるため、集団で統一感を持ってボランティア活動をするにはどうするべきか柔軟に考える必要があると考える。

 三点目は、報道と現地での被害認識の差である。

 報道機関は災害直後に関しては災害情報を多く掲載するのが社会的使命と言えるが、災害を受けていない地域にとって、災害情報より優先して知りたい情報は日々生まれている。そのため、地震の被害が過去と比べて軽微なものであると、尚のこと災害の報道は直ぐに目につきにくくなる。

 私自身を振り返ってみると、熊本地震による津波の心配はなく、電気・水道・ガスのライフラインは大方生き残っていると分かると災害報道は殆ど見なくなってしまった。九州に寄る用事があるのでいずれ熊本でお金を使おうくらいな考えは持ち続けていたが、被災地及びに被災者のことは私の頭の中から消えていた。

 実際の熊本市内は以前の熊本と変わらず経済活動は行われていたし、倒壊してる家を探すのは難しい状況にあり、新聞の一面や今日の最初のニュースとして報道をすべき被害状況かというと多くの人が疑問に思うだろう。ただ、ボランティア活動で被災者の方と接しながら被害状況を認識すると、被災状況の軽重は被災者にとって殆ど関係ないように感じた。家は倒壊していないし、家族は誰一人怪我もせず無事であったとしても、被災は恐怖や悲しみを被災者に強引に刻み込んでるような痕跡が方々に見受けられて、私は被災地で何も言葉に出来なかったし、今も被災地に関して何を思ったか尋ねられても言葉に出来ない。

 報道から被災地が今は安全な状況にあると判断は出来ても、現地の被害認識は別物だということは知っておいて損はないだろう。

 最後に、自粛に関してである。

 東日本大震災の時にも自粛をするべきか否かというのが論争になっていた記憶があるが、熊本震災においても自粛すべきか否か私の周りを含めて論争になっている。私は自粛をすべきと考える理由を把握していないので、自粛すべきか否かの論争に対する意見は述べれないが、現地で避難所で生活している人達と少し談笑した経験から感じたことを述べる。

 被災者の方は一日住沈鬱な雰囲気でいるという訳ではなく、年配の方は楽しそうに談笑していたし、子供達は楽しそうに広場で遊んでいた。私も年配の方の談笑にどういう訳か混ざっていて、気楽な時間を過ごせた。このような状況が被災地において一般的に起こりうるものとは言えないが、楽しく過ごしたい状況にある人に対して自粛するという行為で応えるのが、どういう意味を持つのかは各人で問い直してもよいのかもしれない。

 ボランティア参加者のところで述べたように、自粛することの是非は個人の判断で下してもよいだろうが、現地にあっては柔軟に自粛という行為を扱うのが私は適当ではないかと感じた。

 以上、熊本地震ボランティア活動に参加して感じたこと、知っておくべきと考えたものを4点述べたが、将来の私およびに本記事を読んだ方にとって意味のある内容になっていれば幸いである。

 

11/17 (書評) ジェームズ・M・バリー(大久保寛 訳)「ピーター・パンとウェンディ」

 私は児童文学を読むのが好きだ。好きゆえに丁寧に読み込むために、読み終わるのに時間がかかる。そして、読んで感じることを言語化するのが難しいため書評は避けているが、今回は敢えて挑戦する。

 

 書評として選んだのはディズニーのアニメ映画で世界的に有名である「ピーター・パン」の原作である「ピーター・パンとウェンディ」である。

 

 

 

ピーター・パンとウェンディ(新潮文庫)

ピーター・パンとウェンディ(新潮文庫)

 

 

 

 映画「ピーター・パン」は1953年上映の古い作品であるが、幅広い世代に観られている作品である。ストーリー自体は覚えていないにしても、ネバーランドという島でのピター・パンと子供達の冒険が描かれている作品という記憶はあるはずである。私も映画「ピーター・パン」を観ているはずであるが、キャラクターの印象は色濃く残っているが内容は全く覚えていない。

 

 ディズニーの「ピーター・パン」が好きであっても、原作である「ピーター・パンとウェンディ」を読んだことがある人は案外少ないのでは、と翻訳者のあとがきにある。私は児童文学作品を本屋に行く度に眺めているため、それなりに知識はあると思っていたが、ピーター・パンに原作があったのかと驚いたので、実感として翻訳者の推測は正しいと思う。

 

 ということで、私と同じピーター・パンの原作について全く知識がない人のために、私が重要と思うピーター・パンの原作に関する説明を一点だけする。

 

 「ピーター・パンとウェンディ―」の作者であるジェームズ・M・バリーは童話作家が主な仕事ではなく劇作家としての仕事を主にしており、ピーター・パンという少年は劇作で初登場している。「ピーター・パンとウェンディ―」は児童文学として執筆された作品であるが、劇作として作られた「ピーター・パンーーすなわち、大人になりたがらない少年」の内容が含まれている。劇作の部分は大人向けに作られた作品であるため、原作は子供向けという訳ではないのだ。

 

 「ピーター・パン」は冒険作品で、アイロニーや残虐性は少ないという印象があるかもしれないが、「ピーター・パンとウェンディ」は異様なまでに生々しくネバーランドの住民同士が殺し合う。例えば、ピーター・パンとフック船長の戦いは喧嘩のようにアニメでは見えるが、フック船長はピーター・パンに対して殺意を明確に抱いているし、ピーター・パンはフック船長を殺すことに何の罪悪感もないのだ。また、これは意外かもしれないが、妖精であるティンカー・ベルは事あるごとにウェンディを殺そうとする。しかし、ネバーランドの住民達は誰かが殺されても、または殺されかけても翌日には何事もなかったかのように以前のような付き合いを続ける。ピーター・パンに至ってはもっと情け知らずで、誰を殺したのかさえ覚えていないのだ。

 

 住民同士の殺し合い以外にも冷酷無比な冒険が毎日ネバーランドでは繰り返される。穏やかに過ごせる日が無いと断言しても良い場所であるため、一見したら地獄のように思えるネバーランドは子供達の楽園というよりも、子供という「陽気さ・無邪気さ・情け知らず」人間が、永遠にそういった存在としても生活し続けることが出来る場所である。したがって、ネバーランドでは子供であり続けることが出来る。

 

 ネバーランドは子供であり続ける場所であるというからには、母親や父親といった子供に干渉し得る存在はネバーランドには存在しない。それもそのはず、ネバーランドは親から見捨てられた子供が連れてこられる場所であるからだ(ピーター・パンもそういった子供の一人である)。愛する両親がいるウェンディ―と兄弟は、ピーターパンに騙されたような形でネバーランドに来ているが、直ぐにネバーランドの住民として生活に溶け込む。ウェンディ―と兄弟も子供である以上、子供であり続けることが可能なネバーランドを離れる理由がないのだ。しかし、ある契機でウェンディ―と兄弟はロンドンで待つ両親の元に帰りたいという欲求が出る。そして、直ぐにロンドンの自宅に帰ってしまう。

 

 しかし、ピーター・パンだけはネバーランドに残り続けるのだ。本作は劇作である「ピーター・パンーーすなわち、大人になりたがらない少年」の内容を含んでいると前述したが、ピーター・パンは、ウェンディの両親から親になってあげるという提案に対して、拒否することで大人になることを拒絶したのだ。

 

 ウェンディ―と兄弟は両親という存在に対する「情け」を知り、そのためネバーランドからロンドンの自宅に帰り、大人になることを受け入れた。その結果、「陽気さ・無邪気さ・情け知らず」を失い、つまらない大人になってしまう。一方で、ピーター・パンは永遠の子供としてネバーランドで生き続ける。一見してピーター・パンが幸福のように思えるが、かつての冒険仲間である子供達がつまらない大人になるという悲劇を味わうこととなる。

 

 子供であり続けるのが難しい世の中であるからこそ、自身の子供時代も今を生きている子供も美しいと思えるのかも知れない、 

 

10/24 ドラゴンクエストⅤにおけるフローラとビアンカ、どちらを天空の花嫁として選ぶかに関する考察

 今回のブログでは、ドラゴンクエストⅤにおけるフローラとビアンカ、どちらを天空の花嫁として選ぶかに関する考察をすることで、結婚という行為について考えてみたいと思う。

 

 

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 表題の考察に入るための基本的な「天空の花嫁を選ぶこと」についての説明から入る。

 

 ドラゴンクエストⅤにおいて主人公は、亡き父の遺言で行方不明になっている母が魔界という主人公がいる世界とは別世界にいることを知らされる。

 

 魔界に行けるのは天空の勇者だけであり、天空の勇者が魔界に行くには天空の武具を装備する必要がある。

 

 亡き父は天空の剣を持っていたが天空の剣を装備出来ず、主人公も父と同様に装備出来ないため、主人公は天空の勇者を探すと同時に天空の武具を集める旅に出ている。

 

 旅を続けているうちに主人公は、天空の武具の一つである天空の盾を大富豪が持っているという情報を得て、大富豪の元へ訪れる。

 

 大富豪は娘のフローラの結婚相手を募集しており、フローラと結婚すると天空の盾を手に入れることが可能であるため、主人公はフローラと結婚したい意志を大富豪に伝える。

 

 しかし、フローラの結婚相手に立候補した者は既に数人いたため、大富豪は結婚相手として満たすべき条件を伝える。

 

 その条件は2つの指輪を手に入れ、結婚指輪としてフローラにプレゼントすることであった。

 

 2つの指輪はいずれも命をかける必要がある場所にあるため、主人公は大冒険に出る。

 

 指輪の一つは場所もある程度分かっていたため、主人公は苦労はするものの比較的容易に手に入れることが出来た。

 

 しかし、残る一つの指輪はどこにあるか検討もつかないため主人公は大富豪から借りた船で冒険を続ける。

 

 冒険を続ける中で、幼馴染であるビアンカに偶然にも再会を果たす。

 

 父を亡くし、母とも会えることが叶わない状況にある主人公にとって、幸せであった幼少時の幼馴染に再会できたことは、旅を続けてきた中でも最上に幸せな出来事にあったに違いない。

 

 主人公は、フローラと結婚するために指輪を探す旅に出ていることをフローラに伝えるも、出発する直前にビアンカの父からビアンカと結婚することを遠回しに懇願される。

 

 主人公がフローラと結婚したいのは母親に会うために天空の武具が欲しいからであり、恋愛結婚とは程遠い気持ちである。

 

 一方でビアンカは幼少の頃からの親友であり、大人になり再会しても幼少の頃と変わらずに付き合うことが出来る関係である。

 

 主人公の心情は分からないが、何か心に重しがかかったような状態であったはずである。

 

 主人公のそのような状態を知ってから知らぬか、ビアンカは主人公との指輪探しの旅に一緒についてくる。

 

 その時のビアンカのセリフは次の通りだ。

 

ビアンカ「ねえ……。食べながらでいいから聞いてくれる?

     きのう あれから考えたんだけどね。

     水のリングを探すの 私も手伝ってあげるわ!

     だって(主人公)には幸せになってほしいもんね。いいでしょ?」

 

 

 ゲームの設定上、ビアンカの誘いを拒否すると指輪を探す旅を続けられないが、主人公としては、このように頼まれたら拒否しようがなかったはずであろう。

 

 

 ビアンカと共に無事に残りの指輪を手に入れ、主人公はビアンカと一緒に大富豪のもとへと指輪を渡しに行く。

 

 大富豪のもとまでビアンカがついてきているのは、指輪が別の物でないか確認するためであったからだろう。

 

 

 これでめでたくフローラと結婚する話が進む訳だが、フローラが主人公に同行しているビアンカの主人公に対する愛情に感づき、フローラとビアンカのどちらと結婚したいのか主人公に選択をせがむ。

 

 

 長くなったが、これが「天空の花嫁を選ぶこと」ということである。

 

 

 

 ここまで読んでこられた方はどちらを選ぶだろうか。

 

 ビアンカは幼馴染でもあり、主人公に対して深い愛情を明らかに抱いていることが分かる。

 

 一方でフローラは、母親に会うために必要な天空の武具を持つ大富豪の娘であり、結婚をする意志を相手に伝えているという事実がある。

 

 

 ゲームのプレイヤーは、幼少期のビアンカと主人公のパーティでストーリーを進行しているためビアンカに対する思い入れが強い。従って、ビアンカ天空の花嫁として選ぶプレーヤーが事実として多い。

 

 ゲーム作成者側もビアンカに対する思い入れが強いためか、ビアンカを花嫁にしても天空の武具は入手することが出来るため、どちらを選んでもクリア出来る。

 

 

 しかし、その事実をゲームの中の主人公は知る由もない。

 

 

  ビアンカを選んでもフローラを選んでも主人公はスッキリ結婚生活に入ることは不可能である訳だが、主人公は何を重視して人生を歩むかを考えて「天空の花嫁」を選択しないと命とりになる。

 

  

 ビアンカを選んだ場合、下手をすると天空の武具は一生手に入らない可能性がある。加えて、下世話な話になるが、ビアンカは裕福な家庭ではないため旅を自分の思うようにし続けることが出来ない可能性が出てくる。

 

 ただし、ビアンカの自分の向けられる愛情に対しても、自分のビアンカに対する愛情にも嘘をつく必要がない。お互いに愛し合える幸福は全ての人が手に入れられるものではないため、非常に尊いものだ。

 

 一方、フローラを選んだ場合、天空の武具は確実に手に入り、大富豪の娘ということを活かして旅を自由にかつ有利に続けることが出来る。

 ただし、フローラの場合は自分の都合で結婚しているため、ビアンカを選ばない理由として自分の都合が受け入れきれるかどうかに不安が残る。

 

  

 ビアンカであれフローラであれ、母親がいるとされる魔界に行ける勇者を探し出せる保障はない。

 

 

 従って「天空の花嫁選び」で決定的に重要になるのは、人生をどのように過ごしたいかと考えているかである。

 

 

 主人公は明らかに天空の武具・勇者探しを使命として捉えているため、フローラを選ぶのが合理的である。

 

 しかし、フローラとの結婚生活を続けれるかに不安が残る。

 

 理由は二つある。

 

 一つは先述した、ビアンカを選ばない理由として自分の都合によるフローラとの結婚が受け入れきれるかどうかに不安が残るという点である。

 

 二つは主人公の過酷な旅にフローラが耐えられるか未知数な点である。

 

 二つめに関して、フローラは結婚するまで主人公と冒険をしない。一方でビアンカは主人公と冒険をする機会が多くあったため、主人公との過酷な旅に耐えられると予想できる。

 

 フローラとの結婚は将来の不安要素が多いのだ。

 

 一方でビアンカの場合は天空の武具が下手したら手に入らないという可能性があるが、それ以外の不安は殆どない。

 

 

 不安な点に加えて、フローラの場合は主人公と結婚できなくても別の候補がいるという事実がある。

 

 フローラは実際、主人公と結婚できなくても別の相手と無事に結婚している。

 

 一方のビアンカは主人公と結婚出来ないと、ビアンカの親に対して引け目が生じる。

 

 

 合理的に主人公が動けるのであればフローラを選ぶであろうが、父親の意志をついで母親を探す旅をしている勇者は情にとても深い人物であるはずで、ビアンカを選ばないことは心理的な負担が計り知れないほど大きくなるとも考えられる。

 

 

 フローラとの結婚によって母親探しの旅が成功したとしても、主人公としての人生は強い悔いが残ってしまうかもしれない。

 

 

 従って主人公は何が自分にとって重要なのかを考えて、結婚という行為に踏み出す必要があるのだ。

 

 

 ドラゴンクエストⅤにおける天空の花嫁選びの主人公が求められるものから、結婚という行為は本質的には自己本位で動くべきものであると私は考える。

 

 ドラゴンクエストⅤの主人公はビアンカと再会してさえいなければ、迷うことなくフローラと結婚していたと考えられるし、ビアンカとフローラのどちらかを選ばなければいけない状況も、先に結婚を申し込んでいたフローラの立場を考えると避けるように動けていたはずである。

 

 主人公は最後まで結婚という行為を自己本位で執り行うように動いている。しかし、それで良いのだ。

 

 結婚後の生活も主人公は主人公のために旅を続ける。その旅に「天空の花嫁」は賛同する形で参加する。

 

 仮に嫁が旅をするなと言い、その言葉に従うと主人公は人生をどう生きていけばいいのか分からなくなる。

 

 程度の差があるにしても、働く男性の多くが主人公と同じような状況になるであろう(働く女性の場合もしかり)。

 

 自己本位を完全になくして相手本位で動く場合、主人公は旅をするなといわれた場合、やめざるを得ない。

 

 結婚という行為で暗黙に相手本位でこれからの人生を歩むというのを宣言してしまっているからだ。

 

 結婚という行為は相手と人生を共にするにあたり契約内容をはっきりさせる儀式であり、そこで相手本位の契約内容にしてしまうと自分の人生というものがあやふやな物となり、最悪自己が失われる。

 

 

 ドラゴンクエストⅤの主人公は母親探しの旅と自分の生涯をひっくるめて結婚相手を考えて、自分本位で結婚という行為をすることで母親探しの旅も人生も本人が納得がいく形で終わらせることが出来ている。

 

 

 ドラゴンクエストⅤのスーパーファミコン版のキャッチコピーは「愛がある、冒険がある、人生がある」であり、それぞれを繋げずに書いてあるのはプレーヤーに対して、何をどう重視して生きていくかを考えさせるためであったからだと私は考える。

 

 

 最後になったが、男女ともにお互いが独立した人格として、自分の人生のために結婚という行為が出来ることを祈る。

 

 

10/11 (書評)青来有一「爆心」

 2015年は戦後70年である。この事実は終戦の日(8月15日)以降は殆ど意識されない。私自身も「爆心」を戦後70年を意識して読み始めた訳ではない。

 

 私が本作を読み始めたのは青来有一が私の母校の出身の作家であるからだ。

 

 青来有一長崎市内の中学校⇒長崎県立長崎西高校⇒長崎大学長崎市役所⇒長崎原爆資料館館長という経歴である。

 

 作家としては「聖水」で芥川賞を受賞しており、本作で伊藤整文学賞、谷崎淳一郎を受賞している。

 

 私は青来有一と同じ長崎県立長崎西高校を卒業している。

 

 在籍していた大学出身の作家特集が組まれており、「そういえば出身高校の作家はいるのだろうか?」と気になって読み始めたのだ。

 

 

 「爆心」というタイトルから、これは戦争文学なのだろうと予想されるが戦争文学ではない。

 

 「爆心」は戦後の長崎に住んでいた・住み続けている人を描いている作品である。

 

 従って、長崎に住んでいた・住み続けている人と全く長崎に縁もゆかりもない人とでは本作の印象は相当異なると思われる。

 

 私は長崎に住んでいた・住み続けている人であるため、こういう見方もあるんだなぁといった書評になるかと思う。

 

 

 

 一般的な長崎のイメージは恐らく「異国情緒に溢れた街」であろうが、長崎の人からすると長崎は原爆投下とキリスト教弾圧の二つの理不尽な暴力にあってきたイメージが強い。

 

 まず、そこの認識のギャップを埋めておかないと本作の意味が分からない。

 

 

 本作を理解するのに重要となる要素は、①爆心=長崎の原子力爆弾が落とされた浦上周辺と浦上天主堂が舞台になっていること、②長崎で殉教の火に焼かれたカトリック教徒を祖先に持った人が主要人物であること、である。

 

 

 ①に関しては原爆投下直後も描かれているが、現在の浦上周辺と浦上天主堂が主に描かれている。

 

 私は高校時代に浦上周辺でよく遊んでいたため、土地の何となくの雰囲気が分かる。

 

 浦上周辺は建物が所狭しと建っており原爆の被害を全く感じさせない普通の住宅街である。

 

 原爆投下直後に原爆の火に焼かれた人たちが水を求めて死んでいった浦上川は現在では清らかな小川である。

 

 浦上天主堂は教会としては非常に大きく外見も壮大であるため、パッと見は「流石異国情緒溢れる長崎だな」と思う人が多いはずである。

 

 浦上天主堂には一応、原爆被害によって吹き飛んだ建物一部が今でも見れる場所があるにはある。浦上天主堂は原爆の被害を伝える施設ではなく信徒に利用してもらう施設であるため、ほぼ原爆被害の説明がないのだ。

 

 

 住んでいる人がどんな人なのかは知る由もないが、地方都市の普通の生活が営まれているのが浦上周辺である。

 

 

 従って、浦上周辺で人間臭いことが展開されていても可笑しくない。

 

 本作は原爆で相当な被害を受けた浦上周辺が、何事もなかったようにありふれた街になっているウラカミを巧みに利用している。

 

 

 ②に関しては、長崎の人全てという訳ではないがキリシタン弾圧を受けてきた信徒を祖先に持つ人が長崎には相当いる。

 

 かくいう私もキリシタン弾圧から逃れ、ひそかに信仰を続けていた隠れキリシタンの末裔である。

 

 私はキリシタンではないが、祖父母の家は敬虔なキリシタンである。

 

 本作の主要人物は長崎市で生まれ育ったクリスチャンであるため、私の家系とは状況が異なる(私の祖父母は長崎市に住んでいない)。

 

 

 しかし、それでも長崎のクリスチャンを小さい頃から見続てきた私にも語り得ることはあるように思う。

 

  

 長崎のクリスチャンの多くは先祖からの思い・意志を引き継ぐという形で恐らくキリスト教の信仰を始めており、その思いで続けているように見える。

 

 

 今まで無信仰であった人が何かの契機で突如キリスト教の信仰を始めるというパターンもあるだろうが、長崎の教会は或る地域の歴史と結びついており一種の誇りとしても機能しているため、或る地域に生まれた人たちは自然な流れで信仰を始め、教会という社会で価値観を多かれ少なかれ形成するため、信仰を続けているのではと考える。

 

 上記の記述はあくまで何の勉強もなしに書いている感想であるため、気になる人は文献をちゃんとあたって欲しい。

 

 

 本作の信徒である人たちは物心つく前から洗礼を受けている人たちである。信徒にも熱心な人から、なんとなしに信徒を続けている人もいるが、本作の信徒に共通するのは、祈りをすることにより神から施される恵みは自分自身に与えられているものではないと感じている点である。

 

 祈りという行為自体の性質が分からないと本作の信徒の人たちの葛藤が非常に見えにくいため、私なりの解釈で説明すると、「祈り≠願いを叶えるためのお願い」であり「祈り≒罪深い存在である人間を救いに導て欲しいという哀願」である。

 

 そのため、自分に対して理不尽な出来事ばかりが起こっても、それが人間の救いに繋がっていくという実感があるのであれば祈る行為自体の満足は得られる。

 

 しかし、本人にとっては苦しい状況は何も変わらない。

 

 

 

 ①で爆心地の人々が人間臭い生活をしていても可笑しくないと述べたが、人間臭い生活は信徒の人からすると罪深い行為がある。

 

 そこに原爆投下の中でも生き残った者としての苦しみが加わる。

 

 信心深い信徒であっても理不尽の極みである原爆で救いを請う暇もなく死んだに関わらず、罪深いことを行っている自分が生き残ることの苦しさが生じてくるのだ。

 

 

 神への祈り、原爆で死んでいった人への祈りをしたところで罪が軽くなることはないのだ。

 

 神への祈り、原爆で死んでいった人への祈りは、神からの施しを受けることが出来ずに死んでいった人への施しを与える行為なのだ。

 

 

 現在長崎で生きている信徒たちは、自らの救いよりも重荷を果たすために生き続けて祈りという行為を続けているのかもしれない。

 

 その信徒たちの苦しみを目の当たりにして、長崎に生きる人々も重荷を引き受けているのかもしれない。

 

 

 

 理不尽な暴力に苛まれてきた長崎に生まれ育ったものとして、この重荷から逃げることはほぼ不可能だろう。 

 

 

爆心 (文春文庫)

爆心 (文春文庫)