さこの日常日記

書くことは、……一見不可能なことをあえてするもので、その産物は、……書く人のめざし試みたものに即応することも、似ることもないのだが、その代わり、時として、あたためられた冬の窓に出来た氷花のように、きれいで、おもしろく、心を慰めることがある。

10/11 (書評)青来有一「爆心」

 2015年は戦後70年である。この事実は終戦の日(8月15日)以降は殆ど意識されない。私自身も「爆心」を戦後70年を意識して読み始めた訳ではない。

 

 私が本作を読み始めたのは青来有一が私の母校の出身の作家であるからだ。

 

 青来有一長崎市内の中学校⇒長崎県立長崎西高校⇒長崎大学長崎市役所⇒長崎原爆資料館館長という経歴である。

 

 作家としては「聖水」で芥川賞を受賞しており、本作で伊藤整文学賞、谷崎淳一郎を受賞している。

 

 私は青来有一と同じ長崎県立長崎西高校を卒業している。

 

 在籍していた大学出身の作家特集が組まれており、「そういえば出身高校の作家はいるのだろうか?」と気になって読み始めたのだ。

 

 

 「爆心」というタイトルから、これは戦争文学なのだろうと予想されるが戦争文学ではない。

 

 「爆心」は戦後の長崎に住んでいた・住み続けている人を描いている作品である。

 

 従って、長崎に住んでいた・住み続けている人と全く長崎に縁もゆかりもない人とでは本作の印象は相当異なると思われる。

 

 私は長崎に住んでいた・住み続けている人であるため、こういう見方もあるんだなぁといった書評になるかと思う。

 

 

 

 一般的な長崎のイメージは恐らく「異国情緒に溢れた街」であろうが、長崎の人からすると長崎は原爆投下とキリスト教弾圧の二つの理不尽な暴力にあってきたイメージが強い。

 

 まず、そこの認識のギャップを埋めておかないと本作の意味が分からない。

 

 

 本作を理解するのに重要となる要素は、①爆心=長崎の原子力爆弾が落とされた浦上周辺と浦上天主堂が舞台になっていること、②長崎で殉教の火に焼かれたカトリック教徒を祖先に持った人が主要人物であること、である。

 

 

 ①に関しては原爆投下直後も描かれているが、現在の浦上周辺と浦上天主堂が主に描かれている。

 

 私は高校時代に浦上周辺でよく遊んでいたため、土地の何となくの雰囲気が分かる。

 

 浦上周辺は建物が所狭しと建っており原爆の被害を全く感じさせない普通の住宅街である。

 

 原爆投下直後に原爆の火に焼かれた人たちが水を求めて死んでいった浦上川は現在では清らかな小川である。

 

 浦上天主堂は教会としては非常に大きく外見も壮大であるため、パッと見は「流石異国情緒溢れる長崎だな」と思う人が多いはずである。

 

 浦上天主堂には一応、原爆被害によって吹き飛んだ建物一部が今でも見れる場所があるにはある。浦上天主堂は原爆の被害を伝える施設ではなく信徒に利用してもらう施設であるため、ほぼ原爆被害の説明がないのだ。

 

 

 住んでいる人がどんな人なのかは知る由もないが、地方都市の普通の生活が営まれているのが浦上周辺である。

 

 

 従って、浦上周辺で人間臭いことが展開されていても可笑しくない。

 

 本作は原爆で相当な被害を受けた浦上周辺が、何事もなかったようにありふれた街になっているウラカミを巧みに利用している。

 

 

 ②に関しては、長崎の人全てという訳ではないがキリシタン弾圧を受けてきた信徒を祖先に持つ人が長崎には相当いる。

 

 かくいう私もキリシタン弾圧から逃れ、ひそかに信仰を続けていた隠れキリシタンの末裔である。

 

 私はキリシタンではないが、祖父母の家は敬虔なキリシタンである。

 

 本作の主要人物は長崎市で生まれ育ったクリスチャンであるため、私の家系とは状況が異なる(私の祖父母は長崎市に住んでいない)。

 

 

 しかし、それでも長崎のクリスチャンを小さい頃から見続てきた私にも語り得ることはあるように思う。

 

  

 長崎のクリスチャンの多くは先祖からの思い・意志を引き継ぐという形で恐らくキリスト教の信仰を始めており、その思いで続けているように見える。

 

 

 今まで無信仰であった人が何かの契機で突如キリスト教の信仰を始めるというパターンもあるだろうが、長崎の教会は或る地域の歴史と結びついており一種の誇りとしても機能しているため、或る地域に生まれた人たちは自然な流れで信仰を始め、教会という社会で価値観を多かれ少なかれ形成するため、信仰を続けているのではと考える。

 

 上記の記述はあくまで何の勉強もなしに書いている感想であるため、気になる人は文献をちゃんとあたって欲しい。

 

 

 本作の信徒である人たちは物心つく前から洗礼を受けている人たちである。信徒にも熱心な人から、なんとなしに信徒を続けている人もいるが、本作の信徒に共通するのは、祈りをすることにより神から施される恵みは自分自身に与えられているものではないと感じている点である。

 

 祈りという行為自体の性質が分からないと本作の信徒の人たちの葛藤が非常に見えにくいため、私なりの解釈で説明すると、「祈り≠願いを叶えるためのお願い」であり「祈り≒罪深い存在である人間を救いに導て欲しいという哀願」である。

 

 そのため、自分に対して理不尽な出来事ばかりが起こっても、それが人間の救いに繋がっていくという実感があるのであれば祈る行為自体の満足は得られる。

 

 しかし、本人にとっては苦しい状況は何も変わらない。

 

 

 

 ①で爆心地の人々が人間臭い生活をしていても可笑しくないと述べたが、人間臭い生活は信徒の人からすると罪深い行為がある。

 

 そこに原爆投下の中でも生き残った者としての苦しみが加わる。

 

 信心深い信徒であっても理不尽の極みである原爆で救いを請う暇もなく死んだに関わらず、罪深いことを行っている自分が生き残ることの苦しさが生じてくるのだ。

 

 

 神への祈り、原爆で死んでいった人への祈りをしたところで罪が軽くなることはないのだ。

 

 神への祈り、原爆で死んでいった人への祈りは、神からの施しを受けることが出来ずに死んでいった人への施しを与える行為なのだ。

 

 

 現在長崎で生きている信徒たちは、自らの救いよりも重荷を果たすために生き続けて祈りという行為を続けているのかもしれない。

 

 その信徒たちの苦しみを目の当たりにして、長崎に生きる人々も重荷を引き受けているのかもしれない。

 

 

 

 理不尽な暴力に苛まれてきた長崎に生まれ育ったものとして、この重荷から逃げることはほぼ不可能だろう。 

 

 

爆心 (文春文庫)

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