さこの日常日記

書くことは、……一見不可能なことをあえてするもので、その産物は、……書く人のめざし試みたものに即応することも、似ることもないのだが、その代わり、時として、あたためられた冬の窓に出来た氷花のように、きれいで、おもしろく、心を慰めることがある。

浅草ロック座12月公演「LAST SCENE」鑑賞(2018年鑑賞納め)

今年の12月は私がストリップ鑑賞を始めた頃には既にトップ級の人気を誇っている踊り子さん2名の引退公演と特別な月となった。

 

一人はあすかみみさん、そしてもう一人は伊沢千夏さんだ。

 

どちらの方もポラ館ではラストを飾る踊り子さんで、ラストを飾るにふさわしい魅力を持たれている。

 

この記事では伊沢千夏さんの引退公演となる「LAST SCENE」の考察・個人的に考えたことを述べていく。あすかみみさんの関東最後の公演も観に行っているが、内容がほぼ私的なものにしかならないので割愛する。

 

まず出演者は下記の画像の通り。

 

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浅草ロック座の公演は或るテーマ(例えばグリム童話)があり、そのテーマに沿って演目内容が組まれるのが多く、ストーリー性や統一感といったものが全体を通してある。

 

だがLAST SCENEは全体を通す一つの柱が分かりにくく、各景が独立している印象を受ける。繋がりがなくバラバラなものは記憶に残りにくいが、感情を突き動かせる瞬間は何度もあるもののLAST SCENEは全体がぼやけて記憶に残っていないのだ。

 

正直に言って、一回目の鑑賞後には他人にこの公演の良さを伝えれる表現が出てこなかった。

 

記憶に残っていないからといって満足できなかった公演という訳ではないが、これまでの浅草ロック座の公演とは毛色が違う作品なので評価はかなり分かれる公演ではあるだろう。

 

LAST SCENEの各景は映画や文学作品を題材としている。

 

楽日過ぎてのブログ公開でネタばれしても支障ないかと思うので、各景について細かく書いていく。

 

➀ 早瀬ありすさん 題材:The Sound of Music

トップに相応しいさわやかな景だ。

曲は原作に使われている曲だろうか?原作が気になるところだ。

早瀬ありすさんがメインの景だが、全踊り子さんが出てくるため正に華やかな作品のオープニングといえる。

The Sound of Musicはミュージカル作品がベースで、子供達や少女が歌を通じて幸福感を伝えてくる作品だ。早瀬さんはアルプスの少女ハイジ、他の踊り子さん達はThe Sound of Musicの子供達、伊沢さんは恐らくマリア(修道女見習い)だろう。

 

早瀬ありすさんはロリに括られる特徴が多い方だが、今回のハイジにしてもそうだが単純にロリ的な良さがある部分だけを観るのは非常にもったいない。

 

ロリというとロリ作品から形成されるイメージが男性には強くある。自身がロリを体験している訳でもなく、ロリと深い仲になるのは現実的に困難なのでそれは致し方ない。

 

アルプスの少女ハイジは典型的ロリ少女だが、ハイジも人間関係で大人の社会のようなドライさに巻き込まれてそれを乗り越えていくことが必要となることは多々ある(魔女の宅急便のキキはまさにそうだ)。

 

子供であっても一人の女性であり、一人の人間なのだ。早瀬ありすさんはイメージとしてのロリを壊そうとロリ衣装に包んだ衣装から表現してくる。そしてベッドで脱ぐと完全にロリはなくなる。それでも偶にロリをアピールしてくるところが可愛らしい方だ。

 

そういうことを改めて思った景だった。

 

② 瀬能優さん 題材:ロミオとジュリエット

ロミオとジュリエットはバレエで何度も観ており、最初から悲劇としての印象が非常に強い作品だ。恋に落ちるシーンであっても悲劇的な要素が影を落としているので、観ていて非常に辛くなってくる。

 

このロミオとジュリエットは恋の切なさが全面的に出している。ロミオとジュリエットが心中するシーンで終わらず、恋に破れるようなことがあったとしても未来志向で生きようという瀬能さんの力強いダンスで終わる。徳永英明さんの「永遠の果てに」の歌詞がまさにそのことを歌っている。

 

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バレエは芸術作品としての意識を作り手が強く持っているため、悲劇は悲劇でしか表現し得ない美しさや芸術を表現してくることが多い(有名な作品である「瀕死の白鳥」は白鳥が迫りゆく死にあがきながらも徐々に弱っていき死んでしまうさまを表現した作品だ)。

 

バレエは観る人を前向きな気分や感動的な気分にさせるかというと、そういうことを狙っていないのでそういう気分になれることはほぼない。だが、凄いものを観たという印象は残る。

 

バレエのロミオとジュリエットを想像していたので私は拍子抜けに近いモノがあったが、LAST SCENEは或る作品のLAST SCENEが終わってもそこに続きはあるということを伝えたい作品なのではないかと2景から感じ始めた。

 

 ③ 藤咲茉莉花さん 題材:二人鷺娘

題材は恐らく日本舞踊の「鷺娘」のはず。

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私は日本舞踊がバレエと並ぶくらい好きなので、終始鳥肌が立っていた。

 

坂本龍一の「戦場のクリスマス」に合わせて二人の鷺娘(藤月さんと伊沢さん)が舞う。「戦場のクリスマス」そのものの美しいメロディーに悲劇的な切なさに合わせて二匹の鷺が舞う。

 

またバレエの話で恐縮だが、白鳥の湖は人間が白鳥になっている話で、愛を誓うことで人間に戻れそうであったのに裏切られ最後に死んでしまう(ハッピーエンドパターンもあるが…)。

 

どんなに人間に近い存在であっても動物が人間になることには何かしらの壁がある作品が多い(リトルマーメードとか)。

 

人間は異質なものを受け入れるのは怖いし、理解できない存在を拒否してしまうことは人種や国が違うだけでも発生するので、いわんや違う生き物だと尚更だろう。

 

鷺のことをどんなに愛している人がいて、その人と鷺が結ばれて人間としての生活を送れたとしても明るい未来は想像し難い。

 

 

でも一瞬だけでも幸せな時があるだけでは十分ではないだろうか?

仮にその幸せが消え去ってしまっても、また旅立てる強さをその幸せが与えてくれてい

るはずだ。

 

鷺の衣装を脱ぎ、一人の女性としての体を手に入れた藤咲茉莉花さん演じる鷺はそのような力強いメッセージを訴えかけてきているように感じた。

 

④ 牧野れいなさん 題材:銀河鉄道の夜

銀河鉄道の夜を読んでおらず本景の内容が理解できないのが勿体無いという気持ちで一杯になり、帰りに本屋で買ってしまった(冬休み中に読み終わりたい)。

 

童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫)

童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫)

 

 

※内容が薄くなってしまい申し訳ないですが、読み終わってから加筆修正します。

 

恐らく原作を忠実に再現しているであろうシーンから始まる。

牧野さん扮する全身が金の糸で覆われた少年?が語りながら舞台を不思議な動きで動きまわる。

 

「激しい動きしてんのに、よー息も切らさないナレーションしてはるわ…」というのが観ているときの率直な感想だったわけだが、実際のところ激しい動きをしながら感情や思考が動くときはあるので、忠実に再現しているということでは牧野さんの表現の追求に対する努力に感服している。

 

この景は原作が分からないので何をどう表現しようとしているのかが掴みきれていないが、原作は童話であり美しい想像の世界を牧野さんと赤西涼さんとで綺麗に創造しており、星空が本当に見えるような美しさがある作品だった。

 

 

⑤ 赤西涼さん 題材:もののけ姫

一度目も二度目ももののけ姫としての要素が良く分からなかった(申し訳ない)。

分からなかったというより、もののけ姫としては別物としての印象が強烈に残っている

という方が正確か。

 

強風の中、両足で地面を強くつかんで少女が仁王立ちしているところから始まる。

少女は強風の中で何かを強く見据えながら駆け回る。

 

そういう点ではもののけ姫ことサンもそういうシーンがあったなと思うが、赤西涼さんとサンは別なもののように私は思う。

 

サンは野生児ではあるが、人間との交流の中で人間らしさを獲得していくのが映画では印象的であった。サンの強さが表現されているシーンは人間との争いの中で描かれているが、赤西涼さんは野生児としての側面が強いサンの力強さを表現している訳ではないと思う。少女は何を強く見つめているのだろうか。

 

西涼さんは目力が強いのが特徴的で、サンの目から感情がほとばしる感じは赤西涼さんくらいしか近づくことは出来ないだろう。それに加えて、全身が一つの意志のような表現がサンに非常に近い。

 

この表現が生まれている要因は赤西涼さん自体の表現力に加え、強風が吹きすさぶ様子をバックダンサーの体を包む布のはためきによるものが大きい。

 

1回目に遠くからみたとき、白い布に包まれたものが動いたときに非常に驚いた。

それほど人間らしさを白い布と踊り子さん達が覆い隠しているのだ。

 

 

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ベッドのシーンになると、Bank Band の「to U」が流れる中で力強い少女と打って変わり柔らかい動きとなる。

 

西涼さんは好きな桜井さんの曲に酔いしれながら次第に溶け込んでいっているように思えた。
 

ベッドに入ると人間らしさが全面に出てきて、柔らかいまま森の中へと少女は戻っていくのだ。

 

 

⑥ 川菜ひかるさん 題材:We Will Rock You

 この景は現在大ヒット公開中の「Bohemian Rhapsody」に忠実に構成されている景なのだろう。

 

私は映画を観ていないが、韓国出張中に韓国人に物凄い勢いで勧められたので観に行こうかなと思っている矢先だった。

 

フレディ・マーキュリーは若くして亡くなっており、またマイノリティーとしての要素がある人ということは知っている。映画はその部分の苦悩が恐らく描かれているのか?

 

この景に関しては完全にエンターテインメントを追求した内容となっている。

 

川菜さんは「サラリーマン」という演目を2~3年前に観たことがあるが、典型的なエロさを持ち合わせた方という印象があった。

 

そのエロさと演目を噛み合わせた時の盛り上がりの破壊力は凄いだろうなと思っていたが、この演目は完璧に噛み合っており破壊力が凄かった。

 

これまでの景が内容が重めに来ている中で、ラストに向けて盛り上がるをつけていく景

だ。

 

 

⑦ 雨宮衣織さん 題材:フラガール

 

 フラガールも原作を観ていないため一部理解ができない部分がある。

確か東北のどこかの街おこし的なことでフラダンスをするという話だったような...

また予告での蒼井優さんの印象が強烈に残っている。

 

舞台上には折り鶴が飾られている。

そこにフラガール姿の雨宮さん・藤咲さん・伊沢さんが登場する。

 

折り鶴は平和への祈りや弔いの意味が込められているため、舞台上には何かしらの死や終わりが暗示されている。

 

純粋な白い衣装をまとい明るく踊っているが、それは何かの祈りのようにも思えた。

海は生命の誕生した場所であり、生命を無残に奪うものだ。

また、島国に住む日本人にとって海は誰かを隔だてるものでもある。

 

もう伝えられない思いは祈りや何かしらの表現で伝わることを信じるしかない。

 

フラダンスはそもそもが宗教的な意味合いが込められているため、踊り手が直接に伝えられない相手に思いを伝えるための手法でもあったはずだ。

 

この景では誰の何に対する祈りなのかは正確に分からないが、踊り子として残り続ける雨宮さんは舞台を去っていく伊沢さんに思いを伝えていたように感じた。

 

 

⑧ 香山蘭さん 題材:「独裁者」の一部 ”Chaplin Speech "The Great Dictator"

 

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Chaplin Speechは英語リスニング教材として大学院生の頃に初めて聞いた記憶がある。

最近では "Fight for Liberty" の部分がCMで使われていたような気がする。

 

初めてこの演説を聞いた時に、生きた戦争の残酷さと生きている人間が戦争をしていたということを突きつけられて衝撃に震えた。

 

香山蘭さんは「反戦歌」という演目を持っており、それを拝見したことがある。

反戦歌もこの景も主たるメッセージ性は似ているが、この景は原作が演説であり表情と

声色のみでの表現であるし、原作の偉大さが大きすぎるため香山さんは相当なプレッ

シャーがあったはずだ。

 

 私はどうしても原作のスピーチが先行しており何度もそれを観ているため、香山さんの作品というよりも原作に引っ張られてしまっている香山さんという印象だ。

 

 とは言っても、香山さんのステージを通して原作を観てみたいと思わせる躍動感や強さはあった景に思える。

 

⑨ 伊沢千夏さん 題材:La vie on rose

Edith Piafで最後を締めてきたのが、衝撃であり混乱を私の中で生んだ。

 

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7景、8景と打って変わり、フランスの華やかさを象徴とするEdith Piafをテーマとしている景だ。

 

(フランスの華やかさという分かりづらいかもしれないが、愛に華麗に死んでいくみたいなイメージだ。ドイツやロシアは愛に死ぬといっても影が落ちてくる。)

 

 

公演全体としての流れとしてEdith Piafを持ってくるのが予想外過ぎて、なぜこういう選択に至ったのか、そういう混乱の状態の中で1度目の鑑賞は終わった。

 

しかし、よく考えてみればこの華やかさが伊沢千夏さんなのだ。

この作品のような華やかさが伊沢千夏さんのLAST SCENEとして相応しいのだ。

 

ピンクに彩られた席に、薔薇のような華麗な花の衣装に包まれた伊沢さんが座っている。そのまわりを踊り子さん達が彩っていく。

 

そのような華やかさを損なうことなくベッドへと向かい、終わりまで行く。

華やかさは鼻に着く部分が出てきやすいが、伊沢さんの華やかさは憧れのような存在で

あり続けるというのが伊沢さんの凄さだ。

 

そして、一旦終わったかと思いきや羽衣のような衣装をまとい出てくる。

これまでの華やかさと変わり、落ち着いた笑顔を浮かべている。

 

そこで中島みゆきさんの「ヘッドライトテールライト」が流れてくる。

この流れも初見時には全く意味が分からず混乱する理由だった。

 

Edith Piaf からの「ヘッドライトテールライト」は繋がりが見えにくいのだ。

 

ただ、こういう風に解釈してみたらどうだろうか。

 

最後の和装で出来る伊沢さんはかぐや姫ではないのか。

 

かぐや姫は元々居た月に帰ってしまうが、踊り子としての伊沢さんも元々居た別の世界へと帰る。かぐや姫がどのような気持ちで月に帰ったかは原作から読み取ることが出来ないが、かぐや姫は月での人生が始まる。伊沢さんも踊り子としての人生を終えるが、新たな人生が始まる。

 

かぐや姫と同じように伊沢さんも誰からも愛される美しい存在だった。 

 

かぐや姫と考えるとあのシーンは納得が行く。

 

伊沢千夏さんの踊り子としてのLAST SCENEは一度幕をしめた時点で終わっている。

それでも別れを告げにもう一度、かぐや姫に扮して登場するのだ。

 

⑩ 銀河鉄道999

 

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まさにこの動画の内容といえるフィナーレだ。

 

どんな人とも我々は別れを告げる時が必ず来る。それは一つの終わりであるが、一つの

始まりでもある。別れは辛いものではあるが、メーテルもとい伊沢千夏さんの旅立ちを

後押ししていこうではないか。

 

そう思わせてくれる素晴らしいフィナーレだった。

 

 

2018年もストリップで生きる気力を湧かせてもらい、多くを学ばせてもらい非常に踊り子さんをはじめ劇場関係者に感謝してもしきれなかった。2019年も楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9月結川崎ロック座 鑑賞感想(他人の感想を勝手に妄想してさこが執筆)

私と知人2名(男女各1名)の3名で9月末川崎ロック座を観賞してきた。

踊り子の皆さんは以下の写真の通りだ。

 

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私を知っている方はご存じの通り赤西涼さんが好きなので、1ヶ月のオフを経てのりょんさんに会えるのが楽しみで仕方がなかった。その思いはご本人に手紙で伝えているのでブログにての記録は残すつもりはない。ストリップの良い点の一つとして踊り子さんとの交流の垣根が低いので、思いを伝えたい人は手紙を渡すのは良いのではないかと思う(本人がどう思っているか分からない点が怖くもある訳だが...)。

 

お前の赤西涼さんへの思いを書かないのであれば、今回のブログは何を書くつもりなのかと疑問に思われるだろう。その答えは同席した人の感想を私が言語化しようという試みだ。

 

鑑賞した作品に対して良い悪い、もう一度みたい、感動した等の感想程度は誰でも述べることが出来るが、これを言語化して客観的に落とし込むのは想像しているより難しい作業だ。私はtwitterと手紙で赤西涼さんへの思いを常に何とか表現しようと考えているのでさして難しさを感じないが、他人に自分の本能から来る感動を言語によって伝えるというのは個人の嗜好や価値観が影響してくるため一筋縄ではいかない。

 

彼は口数が少なく、普段思いを伝えようとするタイプではないため、私が感想を聞いてもかんばしい感想が返ってこないので、楽しんでいるのかどうか分からないことが殆どだ。私の試みに対して本人がどう思っているか分からないが、この試みによって本人の鑑賞ライフがより充実したものとなるよう挑戦してみる。

 

以下では同席した人物を「私」、ブログ執筆者のさこは「さこ」での文章とする。

 

では始めよう。

 

さこにストリップに初めて連れて行ってもらって、はや4ヵ月が経つ。

 

私はさこにストリップに誘われて断ったことがないが、断る理由がないから当初は行っていたが、行けば行くほど色々な踊り子さんがいてストリップと一口といっても色々な表現が観れることに楽しさを覚えてしまっている。最近は自分から観に行きたい踊り子さんも出てきた。でもなぜ私はその踊り子さんを観に行きたいのかは良く分からない。

 

さこは頻繁に「どうでしたか?」と聞いてくるが、私は「良かった」か「良く分からなかった」としか答えることが出来ない。それでも彼は私の「良かった」という発言から私の好みを探り当てているようだ。

 

ストリップは見た目では「ルックス」「スタイル」「衣装」、演目でいうと「選曲」「曲の編成」「振付」「顔や体の表現」「演目の流れ」が演目を構成する要素だとさこから教わった。そして大まかに言って、可愛い系・カッコいい系・セクシー系・元気はつらつ系・アート系の5タイプの演目が多いらしい。

 

今回私が気になっている踊り子さんは浜野蘭さんと桜庭うれあさんだ。両名とも浅草ロック座で初めてお会いした方だ。

 

浜野蘭さんはEarth Beatでのインドの景で初めて観た。インドのアップテンポの曲を細い体ながらキレのある踊りをされていて、力強さに惹かれた印象が残っている。

 

Twitterを調べる限り、今回の浜野蘭さんの演目は「白蛇」だ。この演目の何が良いかというと、まずは私好みの選曲だ。浅草ロック座以外は曲名が公表されていないので、どんな曲なのか説明できないんだが、重低音の少しダークさがあるアップテンポなロックテイストの曲と言うべきか。

 

次に「振付」と「衣装」が良いような気がする。私はゆっくりとした振付の作品よりは動きが速い演目を気に入ることが多い気がする。それもダイナミックの動きというよりキレがある感じ。そして衣装、これは特に私は好みがないように思っているが、浜野蘭さんの和→白いレザーのカッコいい衣装の流れの何が良かったのだろうか。衣装に関しては曲との相性が良いと感じるれものが好きなんだろう。

 

そして、ルックス的なところでいうと細い体であっても強さがある所が気になっている。蘭さんは物凄い体が細い方なんだけど、強さを魅せたい動作に力がとても感じられる。筋肉質な方が強い動作をしていてもそこまで惹かれないので、こういうギャップが好きなのかもしれない。

 

さぁ、桜庭うれあさんだ。

 

うれあさんは浅草ロック座の「Earth Beat」のロシアの景で初めて観た。ロシアの少女達がロシア民謡に乗って陽気に踊る、観て居る側も踊り出したくなる演目だった(私は踊り出すことはないだろうけど...)。どうも私は明るい感じが好きなのかもしれない。私を取り巻く社会環境は男性が多い環境だし、出会う女性も少女のような明るさを持った人はいないし出会うこともないだろう。

 

さこはうれあさんを何回か観ているようで、うれあさんが私をがっかりさせるような演目をすることはないと豪語していた。今回の演目を観て、まさにその通りだと思った。

 

ネタバレを避けるので内容が曖昧なところが出てきて申し訳ないんだが、今回のうれあさんは明るさと力強さがある演目だった(演目名:てるてる)。

 

うれあさんはルックスでいうと爽やかな可愛らしらがある。それを最大限に活かした演目だった。うれあさんは笑顔の表現力が素晴らしいところがあるので、笑顔を観れるだけでも私は満足なんだが、その笑顔を映えさせる衣装と選曲に感動してしまった。

 

曲自体は私は好んで聞くことはないだろうと思われるものなので、うれあさんが曲を惹き立てる演目をしていることの証拠だろう。

 

余談だが、さこがうれあさんとポラを撮っていた。私は写真を撮ることに緊張感があるし、写真をどう扱って良いか分からないのでポラを撮るにはハードルが高い。でも、うれあさんの笑顔を観たい時に観たいので写真集みたいなのがあったら欲しい。

 

さこが赤西涼さんが好きなので、私目線からの赤西涼さんの魅力についても書いてみよう。

 

さこは赤西涼さんが好きでたまらないようなので、だいたい誘われる時には赤西涼さんが出演している。さこはどうも自分の赤西涼さんの感想をまとめるので精一杯のようで、私に赤西涼さんの感想を求めてくることは殆どない。

 

西涼さんは表現力がとても優れている踊り子さんだというのは誰が観ても分かる。顔の表情だけでなく、手足の表現まで全てに意識されている。同席している女性は赤西涼さんが目を閉じる動作まで意識していることに気づいて、女性は女性ならではの着目点があるなと感じた(さこはそこまで気づいていることに感動していた)。

 

演目は浅草ロック座のようなプロが手掛けているような衣装・選曲・振付をどの作品も感じるので、一つの美術作品のようだ。

 

そういった作品を魅せてくれる一方で、オープンショーとポラタイムではとても溌剌な方だ。私は元気があるタイプが好きなようだが、溌剌キャラに巻き込まれるのにはまだ経験不足なので少しためらいがある。ちなみに、さこによると私は赤西涼さんに認識されているらしいが、認識されることによってどう対応していいか全く分からないので少し困っている。

 

さこはバレエを観に行ったり美術館に行ったりと美術作品を好む傾向があるので、赤西涼さんは最高なんだろう。私はどちらかというとエンターテインメント的な作品が好きなようで浅草ロック座の "Step on the broadway"はとても好きだ。

 

とは言いつつも、赤西涼さんは完成度が高く確実に満足感を得させる演目を観させてくれるのでお勧めできる踊り子さんなのは間違いない。

 

10月からはハロウィーン演目が増える時期とのことだ。そして夏の開放的な演目から内容がガラッと変わる。秋~冬のストリップ観劇もとても楽しみだ。

 

 

 

根に持つ人間

根に持たれる案件が発生していて、笑い話ではあるが気を付けねばならぬと感じた今日。

 

森博嗣さんがブログに書かれていたことでお気に入りなのが、動物は根に持たないということの考察があります。

 

動物は欲求が満たされないことの不満は示すが、一旦満たされて次の欲求が生じるとその嫌な思いはなかったかのように行動するんですが、動物達と触れ合っているとその通りなことが多くて、羨ましく思います。

 

純化した気持ちを持ちたいけど、仕事となると難しいですね。

体調と眠気

風邪を引いてしまっていたんですが、今日からやっと体調が戻ってきた感じです。

眠くなる薬を飲んでる時は当然仕事中に眠くなるんですが、体力と睡眠不足があいまって薬を飲んでいない今日も物凄く眠かったです。

仕事中に寝るのはホンマに罪悪感。体調を整えるのも仕事ですね。

健康に速く戻りたいわ。

ライブシアター栗橋 初訪問

ロシア語の先生が毎日ブログを書いていたのを読んで良さげだったので、10分以内で打てる分量くらいのブログをすることに。いつまで続くでしょうか…

 

今日はライブシアター栗橋に初訪問してきました。

こんな田舎にあることの驚きと満員で更にびっくり。そして、劇場で飼われている猫のマロンが非常に可愛く人懐こく、猫を飼う人の気持ちが分かりました。

 

明日から仕事。来週土曜日は浅草ロック座。ストリップも行きたいんですが、それと同じくらい語学と読書をしたい今日この頃...

8月9日

日本の四季には行事等に合わせたイメージがある。

 

今は夏だから、祭り、花火、お盆、そして海水浴といったところが一般的な行事だろうか。お盆は関係がない人にしてみれば長期休暇だし、お盆が常に暗いイメージという人は殆どいないだろう。

 

暑いのや人ごみが極端に嫌いな人にしてみれば嫌な季節だろうが、夏は楽しめるイベントが多い季節だ(日照時間も長いので夜遊びもつい長くなる)。

 

夏は人間が他の季節よりも生きていることが感じれる季節だと私は思う。

電子機器のおかげで日常で人とコミュニケーションすることのリアルさをあまり感じる必要がない状態なので、家に籠っていると本当に人間がこの世にいるのかと思うことがある中で、夏は強制的に人間が生きてることを感じさせる。

 

生やリアルに対する不足感が仕事を中心とした日常生活では出てくるので、何かと人がざわついている夏は好きだ。

 

(冬にロシア旅行した時、マイナス20℃でも大量に人が街中でうろついていたのに驚いたが、日本だとマイナス20℃だと殆ど人はうろついてないだろう。)

 

こういう感覚は子どもの頃からあった。私は夏だ!皆で騒ごう!みたいなことは苦手なタイプなので、ひと夏の思い出みたいなのを作るほど充実した夏は経験したことはないのだけれども。

 

それと同時に夏は死を意識している。

お盆は死者のための行事なのでまさにそうだ。長崎はお墓で花火したり精霊流しの時は街中で爆竹を投げまくる状態なので、お盆がド派手で意識せざるを得なかったりする。私は記憶がある限りではお盆に直接関わったことが今までないけども、世の中には死者というものがいるのだという認識は持たされている。

 

それに加えて長崎は8月9日は登校日で、平和学習と11時2分に黙祷をすることとなっている。私は原爆の影響を受けた親族がいないし、長崎県以外で9日がどんな日なのかとは知る由もなかったので特別な感情というものは持っていなかった。今年も9日が来たんだな、というくらいの認識だった。

 

高校生になってからは原爆で被災した高校に通っていたのもあって、9日に被災者の方が高校まで来て慰霊をしていたのを見る機会があった。また、平和活動?を学校以外でしている学生もいたので、身近なものに感じれるようになった。とは言っても、9日は平和のことを考えるのが当たり前だったので、特別な感情はなかった。

 

人の死を考えるということは身近な人が亡くならない限りはないので、9日に平和学習をしても関係が無い人にしてみれば重苦しさのようなものはない。ただ、長崎を離れてみて思うのは何かしらの痕跡が自分の中に残っていることだ。

 

9日からお盆にかけて長崎では死者を弔うような報道が多いので、雰囲気的に夏を全力で楽しもう感が他の都道府県よりは弱い感じがするし(広島は長崎と似ているでしょうが)、少なくとも9日は何でもない日なのが一般的なのに気づいたのはここ数年だ。

 

9日からお盆は死者のことや平和な現在の状態を考えるのが当たり前になっていたので、話題にすらのぼらないのがとても衝撃を受けている。身近に長崎の人がいないのでそういう感覚を共有するのも難しいので、原爆に関する小説を読み始めて一人モヤモヤした気持ちを抱えている。

 

何でもない日が平和であることの証だ。私はもう9日が何でもない日という認識には戻れないので、モヤモヤ感は消せることはない。それが長崎県の教育の狙いだったのかも

しれないと思うと、上手くやったなと思う。

 

このモヤモヤ感を少しでも和らげるには、少しでも多くの人に原爆で死者が出ていることを認識してもらうしかないのだろう。

 

同じ場所で同じように生きていた人間が無差別に殺されたということに対する感情を私は忘れずに生きていきたい。

 

 

価値観とルールについての考察

先日のストリップ観劇にて考えさせられることがあった。

それを文書として残しておきたいので殴り書きではあるが、記録を残す。

 

ストリップ劇場は基本的なルールとして「盗撮・録音・出演者に触れる・声を出しての盛り上げ」行為は禁じられている。私は日本の全ての劇場に行ったわけではないので、日本各地の劇場が劇場内での携帯の利用+取り出しも禁止かは分からないが、恐らく駄目だと思う。盗撮、録音、携帯の利用、劇場内では静かに観るという点で、映画館とルールはほぼ同じである。

 

劇場のチケット売り場で口頭でルールを説明される。口頭に加えて、劇場内でも注意書のチラシが至るところに貼ってある。厳しい劇場はルール違反者の首根っこを本当に掴んで締め出したりしている。緩い劇場でもルールは確実に説明している。

 

ルールは踊り子さんを守るというのが一番大きい理由だが、ストリップ劇場で長年に渡って築き上げられた踊り子さんと観客双方が楽しめる方法でもあるのか、応援方法に関しては大声で盛り上げるのを良しとするアイドルのライブとはかなり異なる。

 

映画館と違ってストリップは一般的ではないので、ルールなんてものは劇場に行って初めて知ることが殆どだろう。

 

それは常連客は百も承知なので、初めてのルール違反は優しく注意する程度で終わる(or劇場が厳しいところはスタッフさんが注意して回る)。そして、彼・彼女らも最低限のルールを守って鑑賞をする場合が殆どだ。

 

だが、先日私が鑑賞に行った劇場は初心者の方があまりにもルールを守っていなかった。

 

劇場内で席を探す雰囲気で、「あ、この人はストリップ初めてちゃうかな」みたいなのはだいたい分かる。そういった人が集団で来た場合、彼らの盛り上げ方や話し声が気になる経験を何度かしているので、少し気にかけながらも距離を置いて集中して観れる環境に身を置くようにしている。

 

ストリップ初めての人がルールをほぼ知らないのは致し方ないので、初めての人が多く来ることは気にしてないし、むしろ歓迎している。ただ、今回はどうしても私の中で許せない何かがあった。

 

ルール違反をしている人は何が悪いのかが分かっていない可能性が高い。それは、ルールを順守してストリップを観ている観客のストリップに対する価値観を知らないからだ。

 

ルールは楽しむためにあるものなので、観客と踊り子さんの価値観が反映されたものだ。観客の価値観が反映されている以上は、踊り子さんに迷惑をかけなければ、自分達が好きなように楽しんで良いという訳にはいかない。

 

観客の価値観なんてものは明文化されたものではないので、初めてストリップに来た人にしてみれば知る由もない。ただ、劇場で一緒に観る以上は知ろうとする姿勢は重要だ。

 

ストリップに限らず、スポーツ観戦でも古典芸能でも、観客とショーを提供する側双方がいることで楽しめるサービスを提供できるものは何でもそうだ。

 

先日の劇場ではその姿勢が感じられる人が少なかったように思えて、私は妙にイラついてしまった。

 

ルール違反をした人達が悪意がないことは楽しそうに観劇していた様子から伝わってきた。

 

しかし、申し訳ないけども、ああいう方達が多く来る劇場は行きたくないなという気持ちがどうしても湧いてしまった。

 

私は彼らの価値観を知らないし、いわんや話してもないので上記のことを書くのは間違っているのかもしれない。

 

話し合って、着地点を見つけるのが良いのか?

 

うーん、私は何て狭量の人間なんだろうか、、、と思い悩んでもいる。

 

 

とにかく、踊り子さんのショーは本当に素晴らしく、これからも見続けていたいのでストリップが繁栄するように力添え出来ればええな。